ああ、あれか。


多分、これが所謂「記憶喪失」ってやつなんだろう。








最初に感じたのは雨の冷たさだった。





おかげで指の先まで冷え切ってる。なのに俺は岩壁にもたれて座って…何してるんだ?
右手には剣が握られていた。こぼれた刃には真っ赤な血が塗られている。これが人間のものだったらどうしようかと思ったが、目の前に転がる化け犬の死骸を見てほっとした。

これ、俺がやったのか?


「ちょっと…大丈夫…?」


ふいに声をかけられて俺は顔を上げた。女の子が、何か異物を見たような目で俺を見ている。
ブラウンの髪に緑の目をした、なかなか可愛い子だ。心配してくれてるってことは恋人か?それとも幼なじみ…

「ああ、大丈夫。心配かけて悪いな」
「え?あ、うん…?」
おっと、そういう訳でもないのか。
心配させまいと声をかけたのに、きょとんとされてしまった。

とりあえず立とうとしてについた左腕に、急に強い痛みが走った。ぱっくり開いた傷が出血してる。雨に流れてなかなかにグロテスクだ。
そうか、これを見て心配したんだな。
犬の死骸を跨いで、女の子は俺の側に近寄ってきた。
「私の家、すぐ近くなの。手当てした方がいいわ」
「え、いいのか?」
「ここは寒いし、風邪ひくでしょ?来て」
お、おい待った!そっちは怪我してるだろ!?その子は剣を持ち上げると、あいた手で俺の手を引っ張って起こした。

なんとかポーカーフェイスを作りながら、俺はただ導かれるままついていった。




「その辺に座って。ちょっと待ってて」
その子は家に入ると、俺を置いて棚をごそごそやりはじめた。
待てというのは理解できたが、その辺って、どこだ?
床には服やら本やらが、足の踏み場もないほど散乱している。

「はい、座って座って」
座るように手で示しながら、その子はあろうことか積み上げた本の上に座った。どこで覚えたのかわからないけど、本っていうのは確か枕にするのも無礼なんじゃなかったっけ。
だが手当てしてもらう身だ、俺も本の上に、気持ち浅く座った。
その子は慣れた手つきで手当てを始める。

「私はティリエ=シベルオラス。あなた名前は?」
「わからない」
「・・・歳は?」
「わからない」
「馬鹿にしてるの?」
ティリエがぴくりと眉を上げた。傷にガーゼを思いきりつけてやろうかと、無言で手を上げる。
「ちょ、ちょっと待った。何にも知らないんだよ俺は。記憶喪失なんだ、多分」
「ふぅん…記憶喪失って自覚あるのね」
「みたいだな。俺も初めてだからわからないけど」
ティリエは疑わしげな目で俺を見る。
前言撤回。こいつが俺の恋人なんてことは絶対にない。

「あのさ、これは俺の勝手な仮説だけど…俺はあの犬から君を助けて、こんな怪我をした?」
「全然違う。私は採集に行くところで、あなたは最初からあそこに座ってたわ。それに私は勿論、この村の人間なら、クローガの対処法ぐらい知ってる」
クローガってのは多分あの犬のことだろう。

村人でも対処できる犬にやられたからだな。ティリエの言葉には何て言うか、優しさが感じられない。
俺は屈んだままのティリエの頭にふと、光るものを見つけた。髪飾りだ。蝶の形をした、家と釣り合わないような高価そうなものだ。
「触ったら、ぶっ飛ばすわよ」
俺は慌てて手を引っ込めた。とことん乱暴な娘だな。「触らないで」で充分じゃないか。
あまりにティリエが険悪(?)だから、俺は余計な事を聞いてしまった。

「なんでそんなピリピリしてるんだ?」
「ここは私の城なの。主がどう思おうが勝手でしょ?」
ティリエは軽く俺を睨む。うわ、逆ギレか。そりゃあ城は主のものだけど、招いた客にそんなに冷たくすることもないだろ。気にしないそぶりで俺は続ける。
「まぁな。で、城には一人で住んでるのか?」
「…兄と二人暮らし。都市にいるからなかなか帰って来ないけど。私は仕送りと、森の稼ぎでなんとか暮らしてるわ」
「森の稼ぎ?」
「キノコとか木の実とか、落ちてるものは何でも売ってるの。今日の収穫はその剣ね」
ティリエは床に置かれた剣に目をやった。帰り道にクローガの血は拭き取ったみたいだけど、刃には気味の悪い曇りがかかっている。

「おいおい、俺の剣だぞ?」
「こんなぼろぼろの剣、熔かして材料ぐらいにしかならないわよ。それにあなたの剣って証拠はあるの?」
・・・確かに。
気がついたら持ってた剣だしな。どこからか盗んできたって可能性もないことはないか。

…盗むならもっといいもの盗めよ、俺。

「今から森に入ったら日が暮れるし。今日の私の稼ぎよそれは」
「あーもう、わかったよ」
俺は半ばめんどくさそうに剣を拾って差し出した。

ティリエは受け取ると、切れなくなった刃を指でなぞり、そこらの手頃な革袋で包んだ。そうか、鞘もないのか。鑑賞用にもならないな。

「で、あなたはどうするの?私はこれをお金に変えてくるけど、ここに居座るつもり?」
入ってきたドアを開けながら、ティリエが振り返る。

ふむ、さてどうしようか。
整理してみよう。まず今、俺の記憶にあるもの。乱暴娘のティリエに、おんぼろの剣、左腕の怪我、……以上。
ティリエに会うまでの一切の記憶は、まるでなかったみたいにスパッと抜け落ちてる。
ここにいても変化はないだろうし…とりあえず頭に情報を詰め込むか。

「俺もついてっていいか?」
「…まぁ。別に何もないわよ?」
「俺の頭の方がからっぽだよ」
ティリエは少し考えるポーズをしてから、軽く顎で外を示した。

「鍵をかけるから、早く出て」